札幌高等裁判所 昭和31年(ツ)5号 判決 1958年2月26日
上告人 茶木原金一
被上告人 国
訴訟代理人 林倫正
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告理由について。
原判決が第一審証人高橋淑雄の証言の一部を措信しなかつたのに上告人の原審における錯誤ならびに強迫の主張を排斥するに当り、右高橋淑雄の証言ならびに弁論の全趣旨に照らして上告人の供述を措信することができない旨を判示したことは所論のとおりである。しかしながら、原判決が排斥した右証言とは、上告人が本件和解契約において、違約損害金の支払義務を何らの異議なく承認したものではなく、むしろやむを得ず承認したとの認定事実に反する供述部分であり、また、原判決は、上告人の原審における本人尋問の結果中本件和解が成立した際、当事者間において、上告人と訴外北海オブラート工業株式会社との間の澱粉代金請求に関する訴訟事件の結果同会社から入金されることを予想する金員をもつて右違約損害金を支払うことを口約した旨および本件和解が訴外高橋淑雄の強迫に因つて成立した旨の各供述部分を排斥するため、弁論の全趣旨と合せて前記高橋淑雄の証言中「茶木原はこの時もその債務を認め、何の異議もなくこの条項を承認致しました」という供述部分を採用したものである。そうして、右高橋淑雄の証言中、原判決が排斥した部分と採用した部分とをみるに、右は互に別個の事実に関するものであつて、一方を排斥し他方を採用してもなんら矛盾する関係にあるものではないから、原判決が前記供述を採用し弁論の全趣旨と総合して上告人の前記供述を排斥したからといつて証拠の取捨に矛盾があるということはできないし、経験則、実験則に違背して証拠を採用したとみることもできないのである。また、弁論の全趣旨とは、当事者の主張の内容、その主張の態度、主張および立証の時期その他の状況を云いこれらの状況は必ずしも記録上そのすべてを明示できるわけのものではないから、記録上明示されていないからといつて所論のような違法があるものとはいわれない。さらに、上告人は本件和解が成立するまでに約一年間、本件損害金の支払義務を否定し続けていたから、上告人主張のような錯誤ないし強迫があるのでなければ和解が成立する筈がないのに、原判決が、上告人においてあつさりと右和解に応じたものと認定したのは経験則に反する旨を主張するが、所論のような経験則があることはにわかに肯認し難いところであり、原判決は、むしろ、上告人が本件和解において従前争つていた損害金の支払義務を承認すると同時に、なお、その支払について五箇年の分割払の方法を定め、その支払を履行したときは被上告人において遅延損害金の債務を免除する旨を約した事実を判示したものであつて原判決において、右和解があつさりと成立した事実を認定したかのようにとることは、原判決の認定に沿わないものといわなければならない。
以上説明するとおり、原判決には所論のような経験則ないし実験則違背の違法は見当らないのであつて論旨はすべて理由がない
よつて、民事訴訟法第四百一条、第九十五条、第八十九条に従い主文のとおり判決する。
(裁判官 臼居直道 渡辺一雄 安久津武人)
上告理由
一、原判決は、上告人が原判決事実欄一の(二)の(に)おいて主張する「本件和解当時、控訴人と訴外会社(北海オブラート工業株式会社)との間に澱粉代金請求事件が係属中であり、しかも控訴人は訴外会社所有の五十万円相当以上の有体動産について保証金十七万円を供託して仮差押命令を得、その執行をしていたのであるから、控訴人は右訴訟の勝訴を確信していたのであり、右事件が終結となるならば必ず被控訴人に対する違約損害金相当額の代金が入金になるものと信じ、入金されるべき右金員によつて弁済する旨を被控訴人の代理人高森正雄、同高橋淑雄に表示して本件和解に応じた次第である。しかるに、後日控訴人は、右訴訟において訴外会社は控訴人に対して僅かに金三十九万円を昭和二十七年十一月末日限り支払うというような条項によつて訴外会社と和解をしなければならない結果となり、かつ仮差押までしてあるのに右和解成立後現在に至るまで一銭も弁済を受けていないのであるがこのような結果になろうとは本件和解成立当時控訴人の夢想だにしなかつたことである。
したがつて控訴人と訴外会社との右訴訟の結果入金されるべき金員によつて支払うということが本件和解の前提要件であり、かつその要素であつたのであり、控訴人が右事実を被控訴人に表示したものである以上本件和解は錯誤により無効である」、との主張に対し、その理由中において「本件和解成立当時控訴人主張の右訴訟が係属中であつたことは当事者間に争いのないところであるが、控訴人の主張する右の錯誤は、動機の錯誤に過ぎない。(中略)そこで右動機が和解契約においてたとえ条項に明定されないまでも、口約として表示されているかどうかを見るに控訴本人尋問の結果中、この点に符合する供述部分があるけれども、右供述は原審証人高橋淑雄の証言および成立に争いのない甲第五号証並びに弁論の全趣旨に照してにわかに措信することができない」と判示し、
更に上告人の仮定主張である本件和解は被上告人の代理人高橋淑雄の強迫によつて成立したものであるとの主張に対しては「原告本人および控訴本人尋問の各結果によれば被控訴人の代理人高橋淑雄が控訴人に対して本件違約損害金の支払を催促した際、もし右違約損害金を支払わなければ訴訟手続に訴えても履行を強制する、被控訴人は国であるから訴訟がいつまで続いても差支えはないが控訴人はそのため莫大な損害を受けることになると強迫したので、控訴人は畏怖の念を生じ、それがために本件和解に応ずるに至つたものである旨の供述があり、高橋淑雄が控訴人に対して多少そのような説得を試みたことは窺えないではないけれども原審証人高橋淑雄の証言および弁論の全趣旨に照してみると、右供述はたやすくそのままに信用することができない」と上告人の右主張を排斥しておるのである。
二、しかしながら原判決は一方その理由前段において、「成立に争いのない乙第六号証原審証人浦口鉄男、高橋淑雄、当審証人浦口鉄男、梶川次郎一(第一回)、森山康信の各証言、原告本人及び控訴本人尋問の各結果に弁論の全趣旨を綜合すれば、本件違約損害金六十七万八千七百六十五円について、被控訴人は農林事務官高橋淑雄をしてその取立の事務を担当させたものであるが、同事務官が昭和二十五年九月二十六日頃及び昭和二十六年二月十五日頃右取立のため控訴人方に赴いたところ控訴人は同事務官に対し「控訴人から訴外会社への営業譲渡によつて本件委託加工契約の一方の当事者たる加工人の地位は控訴人から訴外会社に移転されたものであるから本件違約損害の賠償義務者は訴外会社である」旨申し立てたので同事務官との間に接渉が続けられ話合がつくに至らなかつたため問題が札幌法務局に持ち込まれるに至り、同法務局を介して話合が進められている内に本件和解の成立機運が熟したものであること(中略)および控訴人はその後本件和解成立直前の昭和二十六年六月十八日に上申書と題する書面を北海道食糧事務所長宛に提出し、本件違約損害金の支払について分割払いの方法によることを要請していること、それは必ずしも控訴人が本件違約損害金支払義務を何らの異議もなく承認したものではなくむしろ止むを得ず承認した趣旨であることをそれぞれ認めることができる」として「原審証人高橋淑雄の証言中右認定に反する供述部分は前顕各証拠に照して措信することができない」と認定しておるのである。
三、しからば右の如く「措信することができない」と排斥された第一審証人高橋淑雄の証言は如何なることを証言しておるかというに、その証人訊問調書第八乃至第十二項において上告人は本件和解調書成立以前には右高橋淑雄からの違約損害金支払請求を受けた場合はその都度債務を認め支払猶予を求めて来たもので曽て一度もその支払義務がないという様な主張をした事がなかつたと証言し、上告人が右違約損害金について異議を言い出したのは右和解成立後一年四ケ月を経過した昭和二十七年十二月頃に至り被上告人が上告人所有の不動産強制競売手続を始めてから上告人は右高橋に向い「自分は澱粉製造の営業を昭和二十四年九月に北海オブラート工業株式会社に譲渡して廃業し爾来同会社の使用人として働いて来たにすぎないので澱粉委託加工契約に基く違約損害金債務の責任は当然同会社が負担すべきものであつて自分には何等の責任がないから競売申立を取下げてくれ」と言つて来た旨を証言しておる(同第十五、十六項)部分を措信しないと排斥したのである。
従つて原判決は、前記の如く原告本人及び控訴本人である上告人の供述並びに他の各証拠と比照して「措信せず」と排斥した高橋証人の証言は、実にその証言中の重要部分約九割以上を排斥しておることになるのである。
四、右の如く原判決は高橋淑雄のその重要証言中九割以上も措信しなかつたにも拘らず、遂に上告人の原審における錯誤並びに強迫の主張を排斥するに当つては専ら右高橋淑雄の証言並びに弁論の全趣旨に照して上告人の供述は措信できないとして非常な矛盾ある認定をなしておるのである。
それでは右部分における高橋淑雄の証言内容は如何というに、前記上告人主張の錯誤、強迫の主張に対応する証言はその訊問調書第十三、十四項に記載ある如く、何等この点に触れておらず単に一行「茶木原はこの時もその債務を認め何の異議もなくこの条項を承認致しました」とあるのみである。
しかしながら右一言の証言は原判決が措信せずとした同人の証言第八乃至第十二項、第十五、第十六項と比較して何程の措信価値あるというに、その証言内容からして、かえつて信用できないものと認められこそすれ特にこれを信用できるものとは経験則、実験則上如何なる観点からするも認められないのである。
五、又原判決が記載する弁論の全趣旨というも本件記録上よりしても又口頭弁論の実情よりしても、何処にも上告人の主張した前記錯誤及び強迫の主張を排斥すべき弁論の全趣旨は発見することができないのである。
六、証拠の取捨判断は事実審裁判所の自由心証に委ねられておるところであるが、経験則、実験則に反することは許されないところである。
しかして原判決が認定した如く上告人は本件和解が成立するに至るまで上告人は被上告人の代理人高橋淑雄との間に約一年半の間本件違約損害金の弁済責任を否定し続け来つたにも拘らず事件が札幌法務局に持ち込まれるに至つてあつさりと和解が成立するに至つたとするならば、そこには上告人が主張するが如き錯誤乃至は強迫の要因が存在しなければ成立する筈がないことは経験則上当然に窺われることである。
又その成立した和解条件は五ケ年間の年賦というが如き異常なる内容であるにおいておやである。
しかるに原審は実質上の当事者である第一審の証人高橋淑雄の証言のみを、しかも一方において同証人の証言中重要部分の九割以上も措信しないと判定した証言に附加して記録上その痕跡すら発見出来ない弁論の全趣旨なる文言により、他の証人の証言とよく符節を一にしておる上告人の供述を排斥して事実を認定したことは、経験則、実験則に反した採証法則の違法があり、その違法により事実を誤認したものであつてこの点において原判決は破棄を免れないものと確信して疑わない次第である。